人は、見えるものにしか手を伸ばせない。
けれど、心を動かすものは、えてしてその“先”にある。
歓びや感動は、想像という輪郭の、わずかに外側にある気がします。
私はそこに触れ、カタチを与えることに、情熱を持ってきました。
それが「写真」であれ、「体験」であれ、本質は変わらないのだと思います。
二十歳でカメラを手にして以来、私は、ただ働いていました。
余裕はなく、立ち止まる間もなく、ただ目の前の仕事に追われる日々。
当時、社員は三名。現場も編集も納品も、なにもかもすべてが自分の両手の中にありました。
その荒波の中で、唯一、頑なに守り続けていたことがあります。
「写真だけは、絶対に誤魔化さない」。
どんなに時間がなくても、疲れていても、そこだけは譲れませんでした。
納品前のすべての写真に目を通し、
他者の作品の中にある“良質な要素”を抽出し、自らの糧にする日々。
その積み重ねは、やがて自分の中に一つの結論をもたらしました。
——技術と知識こそが、フォトグラファーの本質である。
しかし、信仰のようなその答えは、ある日、音もなく崩れていきました。
どれだけ写真が美しくても、
どれだけ完成度が高くても、
お客様の心が動かなければ、それは“記録”に過ぎない。
——なぜ満足いただけなかったのか。
その答えは、あまりにも明白でした。
人が大切にしているのは、写真そのものだけではなく、
そこでの「体験」すべてだったのです。
時間が流れ、私は思い切って、あるコンペティションに作品を提出しました。
運よく、国際的な賞を受け取ることができました。
仲間が自然と集まってきて、
名前が仕事を連れてきて、
世界とつながる扉が少しずつ開いたような気がしました。
ただ、それ以上に私を変えたのは、
自らが「結婚する側」になったときの経験でした。
何度も試着を重ねて選んだ婚約指輪。
初めてドレスを身に纏う彼女の、緊張と高揚の入り混じった眼差し。
一つひとつの打ち合わせに込められた不安と期待。
それらは、写真には写りません。
けれど、そこに宿る感情は、確かに“存在していた”のです。
この気づきが、私の視座を変えました。
技術だけでも、感性だけでも届かないもの。
それは、人の人生に寄り添う「想像力」です。
いま、私は思います。
本当の価値は、想像のほんの少し先にある——
まだ言葉にならない感情や、本人さえ気づいていない期待のようなもの。
私は、それに気づくために想像し、
それに応えるために技術を磨いてきたのだと思います。
写真という手段を通して、
その“わずか先”を、そっと差し出せるように。
驚きと歓びが重なったとき、人の心は確かに動く。
私は、そんな瞬間を仲間と一緒に届けたいのです。
